1945年3月10日の東京大空襲

2018年03月10日

敗戦前に私の住む越後の田舎で両国から集団疎開の小学生達がお寺に宿泊していました。ハキハキした下町っ子のしゃべりが新鮮でした。今は家事(kaji)と火事(quaji)の発音が同じkajiになりましたが、小学校の先生がkajiとquajiの違いを発音出来る江戸っ子達を褒めたのが印象に残っています。変ったもの好きな私は物珍しさも手伝ってすぐに疎開学童とお友達になり、休日には畑仕事を一緒にしたり、梨狩りにいったりしていました。6年生が母校で卒業式を挙げる為に3月9日の夜に帰京し、この大空襲で引率の先生一人だけが生き残り、親しくなったお兄さん、お姉さん39名全員が亡くなりました。

東京は1944年(昭和19年)11月14日以降106回の空襲を受けました。日本の耐火屋根瓦を突き破ってから発火するように改良された焼夷弾は、のちにベトナム戦争での高性能のナパーム爆弾に進化します。米軍は江戸の大火や関東大地震での延焼過程を綿密に研究し、延焼効果の高い風の吹く日を選んだのでした。陸軍記念日を狙ったとの説は誤りです。総計325機のB29が出撃し、日本軍の抵抗が少なかったので、14機を失うだけでした。一方日本側の死亡・行方不明者は10万人以上と言われ、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大で空襲による非戦闘員に対する世界最大の大量虐殺です。

耐火屋根瓦を突き破って日本の木造家屋向けの燃焼効率の高い焼夷弾を開発するなど緻密に研究していた米軍に対し、高性能の焼夷弾群に火たたきとバケツリレーで立ち向かって消火するのでは全く問題になりませんでした。消火に当たる人達の避難を制限する軍の命令が存在した為に避難が遅れ逃げ後れた人達が続出し、無用の犠牲者を増やしました。

現在北朝鮮がミサイルを発射して日本列島に迫るとJ-アラートで警報がだされます。畑で頭を抱え込んでうずくまっている日本国民の画像が放映されて世界中の笑いものになっています。「国民の命を守る」と偉そうに言っていますが、実体は戦時中の極めてお粗末な対策とちっとも変っていません。在日米軍基地や大都市に標準を合わせているミサイルの弾頭に核兵器、生物兵器、化学兵器を乗せてぶち込まれたら一たまりもありません。

日露講和を仲介した当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、講和の仲介をしながら日本を仮想敵国として戦争シミュレーション「オレンジ計画」の立案を命じました。計画は1919年(大正8年)に非公式に立案され、1924年(大正13年)初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)で採用されました。「日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」という日米戦争のシナリオで、実際に太平洋戦争はこれに近い戦いでした。

日米協定によって在日米軍基地に治外法権を認めたことによって、日本は属国化されました。欧州でも米軍が駐留している国がありますが、治外法権は認められていません。東部13州から始まったアメリカ西進の最後の仕上げとして、中国の海洋進出や海外進出に向き合っています。アメリカ、中国がいかに対峙するのかが日本の運命を左右します。

食と健康のコンサルタント 渡邉 憲一